こんな『ひと』も生きてるよ。

見たらあなたの力が少し緩むかも、わたしの失敗談やわたしあるあるを放出中。つっこみはご自由に!

今週のお題 おとなになったなと感じるとき

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 

自分が覚えている範囲で

「あ、おとなになったな」

って思えた一瞬は、トマトを食べられた時だった。

 

物心ついてから「嫌いなものは」ときかれると

必ずと言っていいほど「トマト!」と答えていた私。

なにも食べ物に限った質問でもなくても「トマト」。

ご対面機会が多く、ぎゃーぎゃー悲鳴をあげるほど

嫌な虫を差し置いて「トマト」。

とにかく、嫌いの代名詞のような存在がトマトだった。

 

小学校での給食時間、出てくるミニトマトティッシュにくるんで

ごめんなさいと言いながら、ゴミ箱へ捨てていたのを覚えている。

食べ物を粗末にしている罪悪感はあったので心は痛かったが

口に持って行くとすぐさま吐き気がするので

とても食べる気になれなかった。

牛乳で流し込んでも、飲み込みきる前に

逆流してくる体の仕組みもさっぱりわからなかった。

 

高学年になり、トマトは食べれるが豆が嫌いな友達と仲良くなり

その子の豆を食べる条件でトマトを食べて貰える交渉を初めて取り付けた。

 

幸いにもミートソースにケチャップ、ミニストローネといった

加熱済みもしくは調理済みのトマトは食べることができたし、むしろ味は好きだった。

なので、両親も「いつかは食べれるようになるだろう」と

トマトに関してはそれほど強く言ってくることはなかった。

(母が苦手だというのは影響していたかもしれない)

 

ただ、日常生活や外食でも出合う機会が多いトマトは

彩りもよく、なおかつ栄養価も高い。

色も自分が最も好きな赤色。

生トマトが食べられないことは、結構悔しい私のコンプレックスだった。

 

 

悔しい思いがあってか、小さなトマトの欠片や

トマトのかかった野菜などは何度かチャレンジした。

うまくはいかなかったけれど、きっと克服したい気持ちはあったのだと思う。

 

 

それが二十歳を過ぎて、少々やっかいな病気を経験し数年経ったある日。

夕食にと会社の付き合いで訪れたレストランにて、

出されたメニューはトマトを使った創作コース料理だった。

 

勿論、一品目のサラダから生トマトがお行儀良くちょんと乗っかっている。

またチャレンジしてみるかと、近くにあったナイフでさらに細かくして

一緒にお皿にのっていたお肉に挟み込んで口に運ぶ。

 

と。

 

ぱくっ、ごくんと喉を通った。

 

 

わー、食べれたー。

個人的にものすごく感動的な瞬間だった。

食べれたの、ほんの欠片だったけれど。

 

あまりの感動に、2口目までに時間がかかってしまった。

 

同席していた人たちは、美味しいおいしいと言いながら

順調にお皿を空にしていく。

 

何でこのとき食べることが出来たのかは、今でもわからない。

きっと調理の仕方がうまかったのかもしれないし

病気や年のせいで食の好みが変化したのかもしれない。

 

ただ、この瞬間

「あぁ、大人になったんかな」ってふと思ったのだけは

はっきり覚えている。

 

絶対、全く、の0と1、白と黒だけの世界から

ひとつ、受け入れのような許しのような

そんな感じを覚えた。

 

そうやって、大人になるって

何かを受け入れていくことなんじゃないかとと思う。