こんな『ひと』も生きてるよ。

見たらあなたの力が少し緩むかも、わたしの失敗談やわたしあるあるを放出中。つっこみはご自由に!

グループワークってメンタル削られる

今日でグループワーク参加は4度目。

グループワーク、得意ですか??

苦手でしょうか??

 

私は思いっきり後者で

開始までまだ時間があるにも関わらず

心臓の音がうるさく落ち着きません。

 

 

今から参加するのは職業準備支援の一環として、国地域で行っている支援のひとつ。

参加している人は、様々で仕事を探している人や仕事を一時お休みしている人とか、他にも目的があって参加しているそうです。

 

 

私は複数の人がいる中で

何かをするのが苦手。

こういうグループワークでのエネルギー消費が1日の70%近く削られる。

まず、複数人に中にいるという環境で負担40%

その中で作業という負担が60%

で、さらにその中で自分の発言必須となると

100%近くもエネルギーを消耗する。

 

100%はお気付きだろうが

全集中という事なんで、

まーそりゃ全然余裕ない訳で。

自分がどういう状態でいるなんて客観的見方もさっぱりできない。

 

 

集団をものともしない人や、

ただ自分が発言することやPRする事に

抵抗がない人が心底羨ましいです(・∀・)

 

 

そんな私に友人が一言

 

「そこで死ぬわけじゃあるまいし。

 受け流し技術の訓練」

 

 

だそうです。

そうなんだね!!

 

全集中使う場面じゃ無いそうです!!

そう選べるのね!!

 

毎度、そんなエネルギー消耗してたらとても生きてけないぜっていう事らしいです。

せっかく生きてるんだから

好きな事に集中できたらいいですよね。

 

エネルギー消耗は生きる力の消耗です。

皆さまも色んな方々に日々、力を使っていると思いますがどんな事に注いでいますか?

 

「疲れやすい」ていう時は

もしかしたら自分が望む以外の方へ

エネルギー消費量が多めになっているのかも。

少し英気養ってみてくださいね(^O^)

 

 

こうして奮い立たせて

やっと重い腰を上げて、現場に向います。

すでに胃がキリキリしてますが

それでも今日も生きてます。

 

終わったらお昼ご飯食べよう!

 

 

今日のやらかしは

行き道の道路間違えた、でした。

車で向かうにですがその際に4車線になっている道路があって、そこで右折レーンに入りきれない時があります。

私としちゃ2車線で十分なのに4車線て。

 

出来るだけ、自分の比較的走りやすい道路を

みつけておくのが得策のようです!

回り道でいいから作ってくれないかしら!

例えば喋ることが自分の強みに、もしくは

人並みの能力をもっていたならば
どんなに生きやすかっただろうかと常々思う。

人は各々それぞれ能力を持ち、多種多様であるがいざコミュニケーションのツールとなると

強みになってくるのは、いかに

対話が出来るかだと思う。

 

残念ながら、自ら発する側の話が苦手で

今しがたも伝わらない話にどっと疲れが出て

布団に潜り込んだばかり。

 

私にとってめちゃくちゃ疲れる

アウトプット作業だ。
こうもエネルギーが持ってかれるなんて

喋るを武器とする仕事の人たちは

一体どんなパワーをもっているんだか。

(営業の子に聞いたが、そんな喋る事にエネルギーは使わないと言われた)

羨ましい。

 

拘束時間は3時間、うち自分の発言時間は

恐らく15分も経たないくらいだが

すでに眠気と疲れで顔を上げられないほどだ。

 

 

この3時間後はいつもこんな感じで

ぐったりしている。

全く割りに合わない。

 

 

諦めて寝る。

一応は10分設定のタイマー付き。

そして10分後、また5分タイマー。

それからは

ちょっぴりご褒美のお菓子を食べるのを夢見て

布団から出るようにする。

 

「疲れて寝てしまうなんて

 本当に情けない、だめだ」

って思っていた時は,全然起きれなくて。

逆に

 

「いいや,15分は寝て また

 その後活動すれば」

っというように 寝るのは良しとした。

 

諦めが肝心だ。

 

 

そして

他人との会話は未だに解決策はみつからない。

このグッタリが無くなれば

もっと時間が増えるはず。

むしろそこまで喋れる人だけ優位に

立たなくていいじゃないか。

 

まだこの戦いは続きそうだ。

 

文字を考えるのはたまにお休みしよう

SNSにニュース、TVや新聞に広告

書籍にあらゆるデバイス媒体

その他諸々なところに

『言葉』や『文字』が溢れかえっている。

 

ブログだってそうかも。

もともとの物書きさんや本の虫のような

活字大好きさんのように息を吸うように

文字や言葉を扱ったり

また音楽にも歌詞は存在するし

営業マンや評論家、喋る仕事には

目には見えないものの声からの言葉が

ぼろぼろと溢れてる。

 

それほど日常に言葉や文字って身近なものだ。

 

人とのコミュニケーションにも

会話は必要で当然のように

会話に言葉がつきまとう。

 

そんな環境に私はふと疲れちゃう。

今日はお風呂で

「あぁ、文字考えるのに疲れたな」て

浮かんだ。

 

そんな時はお休みしよう。

 

 

 

疲れた時は

お休みも必要。

 

文字に触れるのが疲れる事だって

あるのは 自然。

 

 

 

それなのに何故今このブログを残すかって

いうと

 

それは

記憶は彼方へ消えてしまわないうちに

残しておくためだよ。

 

お疲れ様。

 

この1年の変化

お題「#この1年の変化

2020年、は自分にとっては『変化せざるを得ない』年でした。
単純にコロナによる情勢の影響は勿論あったけれど
それに加え、非常なまでの『荒波』にのまれてしまい人生転覆した。

不思議と死ななかったのはホントに奇跡としか言いようがなかった。
これは一重に、助けてくれた人のお蔭によるものでこれだけははっきり言える。


これが天涯孤独で誰とも繋がりがない状態だったら
ここに自分はいない。

そう思うから、
テレビでみる亡くなった方の数の報道であったり
はたまた彷彿させる映像だったりすると
他人事だと思えず、頬に涙が伝う事もある。


反面、
失ったものも少なくなかった。
物理的なものも手放すことになったし、心身ともに健康も失い
構築してたはずの人間関係も外れていった。

一から見直さなきゃならないことが多すぎた。


幸い、この経験は今回が初めてじゃなかった。


だから、初めての時よりは回復は早い筈なんだ。
それだけを希望に、ただただ、
今を受け入れられるよう たくさん泣いた。
泣き崩れて、喚いて、恨み言もたくさん言って。
本当はこうなりたくなかったのに、って
人にぶつけられない分、紙にも書き殴った。

それから、一切の音もなくなった。
無にもなった。



順風満帆にいられたらとか、
もっと自分が器用だったらなぁとか、
頭が良かったらなぁとか

切りが無いほど 望みはたくさん出てくるけれど

これからまた生き直し。




鬼滅の煉獄さんや炭次郎に顔向けできるまで
まだまだかかりそうな、
それでも作品は大好きですとも。




このような情勢で、
自分以外にも「失ったもの」に望みを持てる人も
逆に今も辛い思いを持っている人もいると思う。
どちらに正解も不正解もなくて。

ただ思うのは
優しい人がこれ以上、傷つかず亡くならないでほしいと願う。

今週のお題 おとなになったなと感じるとき

今週のお題「大人になったなと感じるとき」

 

 

自分が覚えている範囲で

「あ、おとなになったな」

って思えた一瞬は、トマトを食べられた時だった。

 

物心ついてから「嫌いなものは」ときかれると

必ずと言っていいほど「トマト!」と答えていた私。

なにも食べ物に限った質問でもなくても「トマト」。

ご対面機会が多く、ぎゃーぎゃー悲鳴をあげるほど

嫌な虫を差し置いて「トマト」。

とにかく、嫌いの代名詞のような存在がトマトだった。

 

小学校での給食時間、出てくるミニトマトティッシュにくるんで

ごめんなさいと言いながら、ゴミ箱へ捨てていたのを覚えている。

食べ物を粗末にしている罪悪感はあったので心は痛かったが

口に持って行くとすぐさま吐き気がするので

とても食べる気になれなかった。

牛乳で流し込んでも、飲み込みきる前に

逆流してくる体の仕組みもさっぱりわからなかった。

 

高学年になり、トマトは食べれるが豆が嫌いな友達と仲良くなり

その子の豆を食べる条件でトマトを食べて貰える交渉を初めて取り付けた。

 

幸いにもミートソースにケチャップ、ミニストローネといった

加熱済みもしくは調理済みのトマトは食べることができたし、むしろ味は好きだった。

なので、両親も「いつかは食べれるようになるだろう」と

トマトに関してはそれほど強く言ってくることはなかった。

(母が苦手だというのは影響していたかもしれない)

 

ただ、日常生活や外食でも出合う機会が多いトマトは

彩りもよく、なおかつ栄養価も高い。

色も自分が最も好きな赤色。

生トマトが食べられないことは、結構悔しい私のコンプレックスだった。

 

 

悔しい思いがあってか、小さなトマトの欠片や

トマトのかかった野菜などは何度かチャレンジした。

うまくはいかなかったけれど、きっと克服したい気持ちはあったのだと思う。

 

 

それが二十歳を過ぎて、少々やっかいな病気を経験し数年経ったある日。

夕食にと会社の付き合いで訪れたレストランにて、

出されたメニューはトマトを使った創作コース料理だった。

 

勿論、一品目のサラダから生トマトがお行儀良くちょんと乗っかっている。

またチャレンジしてみるかと、近くにあったナイフでさらに細かくして

一緒にお皿にのっていたお肉に挟み込んで口に運ぶ。

 

と。

 

ぱくっ、ごくんと喉を通った。

 

 

わー、食べれたー。

個人的にものすごく感動的な瞬間だった。

食べれたの、ほんの欠片だったけれど。

 

あまりの感動に、2口目までに時間がかかってしまった。

 

同席していた人たちは、美味しいおいしいと言いながら

順調にお皿を空にしていく。

 

何でこのとき食べることが出来たのかは、今でもわからない。

きっと調理の仕方がうまかったのかもしれないし

病気や年のせいで食の好みが変化したのかもしれない。

 

ただ、この瞬間

「あぁ、大人になったんかな」ってふと思ったのだけは

はっきり覚えている。

 

絶対、全く、の0と1、白と黒だけの世界から

ひとつ、受け入れのような許しのような

そんな感じを覚えた。

 

そうやって、大人になるって

何かを受け入れていくことなんじゃないかとと思う。

 

 

目を向けるのはコロナだけじゃないよ。

昨今、コロナで騒がしい。

「医療が逼迫している」「不要不急の外出はするな」

「Go To トラベルは一時停止」・・・

今では、家の中でもマスクをという話も出てきているらしい。

 

なんてことだ。

今日出かけたショッピングモール、きちんと入り口に消毒液が備え付けられていたが

私と似たようなタイミングで入ってきた5,6人の人たち

消毒すらせず入店していたよ。

テレビでは「家の中でもマスク」といいながら

外出先では手の消毒すらもしていない人を目にすると

一体なんだかなぁという気持ちになる。

 

なんと理想と現実離れした話がテレビでされているだろうか。

殺菌、消毒も「個人の努力」なのだろうけども。

 

 

毎日毎日コロナも文字が飛び交う日々だが

蔭で全く出てこないが、とある人の数字が確かになる。

コロナで亡くなる数よりも、はるかに多い自殺者の数だ。

コロナショックが関係しているのか

今年の7月以降に前年より増加傾向にあるそうだ。

 

人の命は数じゃない。

コロナでなくなっても、自殺でなくなっても

同じ亡くなってしまった大切な命なハズ。

なのに、コロナでなくなっただの重傷者だの

日々報道されるが

蔭で亡くなる人たちはもっとたくさんいるのに何も出てこない。

 

亡くなっているのは、子どもや女性が多いそうだ。

記事を見たときはゾッとした。

(一歩違えば自分が亡くなっていた可能性はとても高かったかも)

 

人が生きているのは、奇跡に近い。

皆なにかしら懸命に生きている。

生き物として地球で生きてる以上、人の力では

どうにもならなくて、亡くなることだってある。

けれど自分じゃ無理でも少し周りの手を借りたら、亡くならなかった命もある。

それが、とても悔しいし残念に思う。

 

人はひとりじゃ生きていけないもの。

子どもは大人に囲まれ、たくさんの可能性を秘めながら

たくさんの世界をみる未来があったろうに。

女性だって、そうだろうに。

 

 

今をとてもつらいと感じる人はたくさんいると思う。

コロナで安易に人と接触すら出来ない。

人のぬくもりが感じにくい。

外出は控えよと言われ、遠出は場所によっては心無い人から酷く非難される。

孤立しがちになる。

 

『支援の輪はどこかには広がっている』という。

でもしんどい時って、そういうのを自分で見つけるのって

とても難しいのだ。

視野が狭くなっているから、しんどいことに囚われがちになる。

 

だからといって、亡くなることを選択するのは

少し待ってほしい。

こんな寒い冬だ。

あたたかいご飯を食べて、それから一息ついて考えてみてほしい。

 

「寒い」と「おなか減った」は危険だ。

 

胸に手を当てて、言ってあげてほしい。

誰がなんと言おうとも、あなたの命は尊い物だ。